宇城、福岡県豊前市、球磨、熊本北、倫理法人会4カ所での講話体験報告
写真手前が若松専任幹事、私の右隣が松本会長
2月15日(火)宇城倫理法人会モーニングセミナー
豊前市倫理法人会
3月30日(水)ナイトセミナー
31日(木)モーニングセミナー
4月13日(水)球磨倫理法人会モーニングセミナー
4月27日(水)熊本北倫理法人会昼食会
写真は丸山敏雄先生の墓前にて
上記の4地区で講話を致しました。講話の内容や感じたことをまとめて、報告していきます。次回6月13日(月)、14日(火)佐賀市倫理法人会にも講師として呼ばれていますので、それに備える為でもあります。
2月15日(火)宇城倫理法人会モーニングセミナーからの報告。
宇城の草場さんからモーニングセミナーの依頼がありました。8年ほど在籍していましたので、自衛隊のことを少し話したいなと思っていましたが、話を整理しないと、訓練の様子などを伝えることは出来ないなと、せっかくだから自衛隊のことも腹を据えてお話ししなければ、勿体ないことになります。たまたま聞きに来ていてくれた緒方幹事長からは、兄弟についてのお話しに興味を持っていただいたようで、話したことで手応えがあったところと足りなかったところがあったりなかったりで、まだ成長の余地がありそうです。
3月30日(水)ナイトセミナー、31日(木)モーニングセミナー 豊前市倫理法人会で行った講演会からの報告。
豊前市倫理法人会で行う講話は、法人レクチャラーとしては初の講話で、何をお話ししたものかまだ手探りの状態でした。法人レクチャラーとして呼ばれますと、夜のナイトセミナーと、翌朝のモーニングセミナーの二つのお話しを用意しなければなりません。
一つは「喜んで」という演題で、父や兄弟との関わりを通して、そこで感じたことなどをお話しして、宇城でも話した内容ですが、その日の調子とかで当たり外れはあるけれど、なんとかお話しできます。もう一つをと考えて、さて家内とのことをお話ししようか、万人幸福の栞、第5条の夫婦対鏡、「対立」について。倫理でいう「対立」という捉え方がとても新鮮で、興味深いのですが、対立から合一へと向かう過程が今ひとつはっきりしません。とても大事なところだけれど、まだ今の自分にはそこまでのお話しは出来そうにないなと、それでも思い当たる節もないこともないのでと、家内とのことを話にまとめておりました。そうしたら宇城でお話ししていた自衛隊のことがぽんと頭に浮かんで、自衛隊での訓練を事細かにお話しできたら、誰にも出来ない私だけのお話が出来るかも知らんと、話をまとめてみました。
射撃訓練を、体を使った模擬訓練で体験してもらって、その後行進訓練、最後は戦闘訓練で突撃させて、最後の号令は、「普及に向かって進め!」とやれば、会長喜ぶかなと、話をしてみました。自衛隊での訓練の様子は、みなさん初めてのことなので、それぞれに興味を持って聞いていただくことは出来たようですが、それ以上のものまではなかったようです。まあまあといったところでしょうか?
模擬の射撃訓練は、マニアックにすぎたようです。2,3人に絞って実施するなら出来ないこともないでしょうが、そこまでしてする意味もありません。次回は、なしとしましょう。
若松専任幹事が、レクチャラーの初デビューということでCDに録音してくれたのを後で送って下さいました。家内がそれを聞いて分かったのですが、「ここには家内はいませんので…、」と、不穏当な発言をしていたようです。後になると何を話したのか、大抵のことは忘れています。要注意です。
4月13日(水)球磨倫理法人会モーニングセミナーでの報告。
豊前市倫理法人会で自衛隊での訓練を話していましたので、それを半分と、私の生い立ち、家庭的なお話を半分と思ってお話しさせていただきました。自衛隊のことは気分よく話せて、球磨の人も熱心に話を聞いて下さって、ありがたかったです。聴衆の反応によって、話す方も全然違ってきます。その点はありがたかったです。勿論今までお話ししたところの会員さんも熱心に聞いて下さっています。
最後に父の日記を朗読させていただいて、いつまでも父に頼りっぱなしの講話では成長がないかなと感じたことでした。
4月27日(水)熊本北倫理法人会昼食会。
昼食後に20分の講話をということでしたが、実はこれによって得るものは、とても大きかったのです…、

写真は昼食会での講話 右は井出会長
「ほのぼのとして それでいて芯のしっかりしたお話が聞けたことに感謝いたします。ありがとうございました。」話を聞いて下さったお一人から、このようなコメントを頂きました。
平成23年5月6日記す
北での昼食会ですが、井出会長から話があって、昼食後に20分ほどの講話をということでした。20分という時間は微妙で、テーマを掘り下げて話をする時間はないと思ったので、演題を「困ったときの○○頼み」と、挙げさせてもらって、昔父とのことを中心に小説を書いていたので、その時の気持ちや心の変化を中心に、お話を用意しました。
家内からは、この小説を書いて、批評文やら、お手紙などを頂いておりますが、あまりこれらを紹介すると自慢話になるから、どれか一つにしなさいと言われ、それも一理あるかなと思いましたが、時間があればお手紙と、西日本新聞に載った批評分、それと家内との結婚式の様子を熊日の記者(当時:今はかなり偉くなっておられます。)が載せてくれているので、それまでを紹介するつもりでしたが、時間との関係があって紹介できたのは、森川譲(甲斐弦)先生からのお手紙だけでした。このお手紙は同人雑誌にそのまま掲載されましたが、今から思うと、当時の編集長であった久保田義夫先生が、私を売り出そうとしてくれていたのだろうと思います。私にお手紙を下さった甲斐弦先生は、「明治10年」という作品を発表されていて、高名な先生でした。最近では民放の年末番組で、里見浩太郎さんが西郷隆盛を演じて、堀内孝雄さんが「もう少し時が、緩やかであったなら」とテーマーソングを歌っていましたが、あの番組の原作者です。当時はそんな偉い先生とは知りませんでしたが、本当に心のこもったお手紙を頂いて、何とも言えない幸せな気持ちになりました。
書いた小説の内容は、私が小学校4年生の時から父が亡くなる17歳の時までを時系列に並べて、自分の半生を検証するようなものでした。多くの批評やら、心のこもったお手紙を頂いて、私のこの鬱屈した思いは、みんなに理解してもらえる。父田口國光という人間は、多くの人に共感してもらえる。そう思えたとき、父に対して持っていたわだかまりが一挙に崩壊して、何とも言えない、幸せな気持ちになれたのです。
文章を通して父と向かい合い、ここで幸せになれたのですが、一つ山を越えると、今度はそれ以上の山が目の前に立ちはだかります。それは昔から物書きの世界で言われています「処女作を越えられない」というものでした。処女作というのは、その作者にとって一番切実なものを題材として選びますので…、というよりは、そこを通らないと、どこにも行けないものなのですが…、
続く
